寝台車の窓が明るくなってくると外は緑だった。ハンガリーも、スロヴァキアも雪で真っ白だったから、緑色の地面が珍しい風景に見える。ボヘミアはだいぶん暖かいのだろう。ジャンパーだけで歩いている人も多い。
部屋で歯磨きをする。昨夜はシンクの排水が悪くて文句を言おうとしていたが、今朝は直っている。どうやら水が流れなかったのは、詰まっていたのではなくて凍っていたからのようだ。
荷物をまとめ、そろそろ着く頃だなと思いつつ外を眺めていると、列車はがしゃりと止まってしまった。発車のときは音もなく動き始めるヨーロッパの列車だが、どういうわけかブレーキが下手くそなようだ。寝台車係が回ってきて、もうプラハだという。予定よりも5分早い。
こういうこともあるんだと感心しつつ、外に出ると、そういえば見覚えのある駅だ。プラハの中央駅はヨーロッパによくある行き止まりの駅ではなく、日本風の作り。だからホームをくぐる地下道がある。
それは結構なのだが、無理矢理車椅子対応にしたせいなのか、地下道へのアプローチがとんでもなく長いスロープになっていて、ずいぶんと遠回りをさせられる。車椅子は通れても、これでは大荷物の老人には大変だ。もう少しなんとかならないのかと思わせる、ツメの甘い設計である。
チェコ・コルナをまったく持っていない。両替所はいくつも開いているが、駅の両替所というもの、旅行者の足元をみてとんでもなく悪いレートをふっかけてくるに違いない。連中を儲けさせるのは面白くないからキャッシングをしようとATMを探すが、見あたらない。
タクシーの客引きにマークされ始めた。相変わらずプラハのタクシーは評判が悪いらしい。悔しいけど今回は負け。タダで負けるのはつまらないから、いちばん見目麗しそうな方のいらっしゃる両替所で20マルク札を2枚両替して、地下鉄の案内所で3日分のフリー切符を買う。
それにしても暖かい。コートは脱げないけれど、マフラーを外しても寒気が襟元に差し込まない。両替所の見目麗しい方も、地下鉄の案内所のおばさんも、なんとなくヘラヘラしている。思わず渡されたお金を数え直してしまったが、このくらいの方がツーリストには気楽だ。みんな適度に「いい加減」な方がいい。
予約を入れておいたホテルには朝の10時過ぎに到着してしまった。部屋を使えるのは午後だろうと思っていたのに、眠たそうなレセプションのお姉さんはあっさり鍵を用意してくれた。お姉さんが寝ぼけていたせいでこういうツキが回ってきたのかもしれないが、とにかくありがたい。
鍵を渡された部屋は支払った料金に不釣り合いなくらいに広かった。手違いがあって後から料金を請求されたらどうしようかと一瞬思ったが、さしあたり知らん顔をしておくことにする。2度寝をしたい誘惑に駆られるが、どうにか我慢する。
そういえば今日は朝食を食べていない。寝台車では食堂も車内販売もなかったから、食べ損ねてしまったのである。朝食を抜くというのは絶対にやらない主義だが、ホテルの部屋でシャワーを浴びたり荷物を開けていたりしたら、中途半端な時間になってしまった。
ホテルのレストランは退屈な上に料金が高そうだ。今日はもう少し空腹を我慢して街に出て「チェコっぽい」食事をしようということになった。旧市街広場に面したレストラン-Staromestka Restaurace-に目星をつける。
1994年にやってきたときは夏休みのバカンスシーズンで混雑していたが、さすがに冬は空いている。夏場のように店の外にならべられた席はないけれど、旧市街広場を眺められる窓際の席にありつくことができた。
この店のメニューは分厚い。料理の種類も決して少なくないのだが、メニューの厚みを増しているのは多数の言葉で書かれた「ハイブリッド」になっているせいだ。チェコ語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、そして日本語メニューまで用意されている。
ギャルソンがそれらの言葉をすべて理解するわけではないが、外国人がすっかり定着した東京のレストランでも増えてきたようにメニューには番号が振られており、メニューを指差すだけで注文の用は足りる。ぐるりと店内を見回すとドイツやイタリアの老人が大勢いるようだが、彼らもこれなら困らないはずだ。
オードブルを何品か注文したのち英語のメニューと日本語のメニューを比べていたら、日本語メニューには記載されている「ウナギのグリル」が英語のメニューでは欠落していることに気が付く。これは気になって仕方がない。メインの一品目は決まった。もう一品は強力に「オススメ」されているスペアリブにする。
外は小雨が降っているが、これまで旅してきたハンガリーやスロヴァキアのような影がない。ここのギャルソンも駅の両替所にいた見目麗しい方や地下鉄の案内所のおばさんのように、どことなくヘラヘラしている。悪くいえば軽薄な感じもするが、どう見てもツーリスト風の外人が多い観光名所を臨むレストランの華やかさにはよく馴染んでいて、気兼ねがない。
テーブルにビールが運ばれてくるほんの少し前、目の前の広場から時計の音がした。12時である。どうにか今日も午前中にアルコールを摂取しないという自主規制を守ることができた。
クラシック音楽というのはどこか気取っている。結構な趣味だとは思うけれど、なんとなく鼻につく。芸大のキャンパスでも、薄汚いが人なつこそうな美校にくらべて音校は取っつきにくそうな雰囲気で、脂っこい料理の臭いがする。
オペラやコンサートの季節は冬、というよりも、日の短い冬のヨーロッパを旅してみると、必然的にこういう時間の使い方になってしまうということがよくわかる。普段はオペラを鑑賞するような趣味はないくせに、今回の旅では是非ともオペラを見物したいと考えていた。
しかし、ブダペストではハンガリー国立オペラのチケットが手に入らず、残念な思いをした。ブダペストにはオペラよりも幸せな温泉があったけれど、プラハに温泉はない。どうにかチケットを手に入れたい。とにかく国立オペラ劇場の窓口に足を運んでみた。
チケットの販売窓口は劇場と同じ建物の左側にあった。劇場の正面玄関は立派だがチケット窓口のドアは限りなく小さく、勝手口のようである。ブダペストの劇場の窓口が正面玄関を入ったところにあったのに比べると、ずいぶんもったいぶっている気がする。
さすがにボックスシートは予約でいっぱいだった。けれども、いちばん安い天井桟敷と座席表で見る限りはよさそうな1階の席が空いているという。悩ましい選択を迫られたものである。1階席のお値段は900KC。チェコの物価から見ればかなりの贅沢をすることになる。おいしいチェコのビールが何杯飲めるのか計算してしまったが、900KCの席にした。
チケットは手に入ったものの、中途半端に時間が開いてしまった。雨が降る中どこかに行くのも面倒なので、劇場の裏手のレストランでオードブルをつまみながら時間つぶしをする。ちょっと馴れ馴れしいが観光地らしい雰囲気の店で、オペラの前の暇つぶしには似合っている。
開場時間になって劇場の中に入る。もったいぶられた分だけまぶしく見える。どこから湧いて出てきたのか不思議になるくらい小ぎれいな格好をした人が大勢いてびっくり。身なりの薄汚い外人ツーリスト-数は少なくない-は一目で判別されてしまう。
ともかくも華やかな劇場で、オペラは始まった。薄汚い外人ツーリストには、私以上にオペラなんて縁遠そうな面々もたくさん含まれているようで安心する。しかしオペラは難しい。ストーリーの細かいところはさっぱりわからないし、舞台の上に流れるチェコ語の字幕が役に立つはずもない。
舞台よりも客席の観察の方がすっかりおもしろくなってしまった。大声でブラボーとでも叫ぼうとしたのか、ガイドらしい連れに立ち上がるところを制止されるアメリカ人、普段は着ないドレスが合わないらしく3分に1回座り直しをするボックスシートの女性、本日の公演にとてつもない価値を見いだしている様子で身じろぎひとつしない中国人とも日本人ともつかない学生風。舞台を見ないでプログラムばかり見ているおばさまは、暗い客席で本当に読めているのか不思議だ。
こんな客席が明るい照明の下に連れ出される幕間はもっとおもしろい。みなさんいきなり姿勢が良くなっているようだ。舞台を見ないで客席ばかり観察していた変態がここにいるとも知らず、七五三の子供のように幸せそうである。
マトリョーシカ君が幕間のロビーでシャンパンを売っているのを見つける。なぜかこういうことだけは早いのである。シャンパンは大変おいしいが、グラス100KCという結構なお値段である。しかし本日は財布の紐を締め忘れており、2回の幕間で2人あわせると1000KC以上も飲み込んでしまった。
お酒を飲むとたばこが恋しい。ロビーの片隅に設けられた喫煙室は、非常口をにわか作りで改装した感じで薄暗い。8畳くらいの部屋の真ん中にひとつだけ置かれた吸い殻入れに、カモメが魚を捕るようにしてかわるがわる灰を落とす。ここにはヘラヘラにやけたチェコ人は見あたらず、みんな難しそうな顔をしていた。
プラハ2日目、取り立てて理由はないけれどプラハ城の聳える王宮の丘に登ってみる。飛行機を盗んだアタ君の後輩と間違えられて、秘密警察の残党に捕まえられるようなことがまさかあるとは思えないが、時節柄ツーリストらしく行動しておいた方がよい気はする。
プラハ城の見世物は直立不動で立ち続ける近衛兵である。これはもう笑っちゃう代物だ。第一動かない。動かないのが彼らの職務なのはわかっているけれど、まじめにやっている人を笑うと怒られるかもしれないけれど、やっぱり可笑しいのである。
日本ではこういう可笑しさはなかなか見つからない。大相撲の土俵入りも、歌舞伎の宙乗りも、可笑しいことには変わりないが、日本の可笑しさはどれも動いている。動かないことの可笑しさは、ドルマバフチェ宮殿に近衛兵がいるイスタンブルよりも西にしか見当たらないようだ。
動かないのが商売の近衛兵だが、交代の時間だけは動くことが職務になる。とりわけマティアス門の前の広場でとり行われる毎日正午の交代式は、プラハにおけるエンターテイメントとして出色である。見物するのはロハだから、コストパフォーマンスもすこぶるよい。
近衛兵君たちがどういうローテーションで職務についているのかは不明だが、交代式典の時間になるとどこからともなく非番の近衛兵までやってくる。交代のエンターテイメントを演じている近衛兵よりも、見物している非番の近衛兵の方が多そうなくらいだ。
非番の近衛兵はヘラヘラとにやけていて、プラハらしい。ようやく交代時間になったのに、七面倒臭い交代式をこなさなければならない同僚を眺めながらニヤニヤ笑っている。ひょっとすると近衛兵は必要な人数よりもはるかにたくさんいて、クジ運の悪いヤツが直立不動の当番にされるか、ヘマをしでかした場合に「罰ゲーム」としてやらされているのかもしれない。
非番の近衛兵も、見物のツーリストもみんな可笑しいうえに、当番になった近衛兵まで可笑しさがよくわかっているようで、一層大真面目ぶりを発揮しているようだ。とにかく可笑しい、ヘラヘラとした雰囲気のうちに式典が進んでゆくのが、観光地らしい雰囲気である。
可笑しさに包まれたプラハ城の丘の隅に「黄金の小路」なんていう仰々しい訳を付けられた細い通りがある。カフカが作業場として使った建物が残っている通りだ。今は見世物になってしまっているけれど、お城の陰の片隅にある陽当たりの悪いこの通りには、きのう劇場の喫煙室にいたのと同じ、難しそうな顔をした人たちが似合っていたのかもしれない。
チェコはビールがうまい国だ。ワインのおいしいハンガリーの後にやってきたからついついワインを注文しそうになったが、ようやく調子が出てきた。とりあえず、その後も、ずっとビールである。レストランの安いプラハだが、ビールはとりわけお安い。ビアホールに行ってみた。
プラハに着いてから完全に「外人ツーリスト風」に動いているから、店も頓着なく選ぶことにした。Lonely Planetに載っているRestaurace U Medvidkuを選ぶ。金曜日だけあって混雑していた。案内された席のとなりには観察対象としておもしろそうな20人近いチェコ人の団体がいる。50過ぎくらいのおじちゃん、おばちゃんたちの団体がどんな関係なのか、興味を惹かれるところだ。
一見ヘラヘラしているようでもあるこの団体をしばし観察していると、食べ物を取らずにビールばかり飲んでいる。ジョッキを口に運ぶたびにまじめそうな顔で話をし始めるのが可笑しい。年齢からいってプラハの春のころ学生をやっていた世代なのだろうか。理屈っぽそうであると同時に、いまだ血の気が多そうな集団にも見える。
われわれとこの団体のいる席は簡単なパーティションで仕切られている。賑やかな店内では会話が他の席に聞こえることもなさそうだ。ひょっとすると今夜も「不穏な企み」を練るために、わざわざこの席を指定して集まっているのかもしれない。チェコ語ができたらさぞ楽しかろうと思う。
「不穏な団体」はなにも食べていないけれど、チェコにはおつまみになりそうな料理が多いからうれしい。この店のギャルソンたちはやっぱりヘラヘラにやけていて居心地がよい。ジョッキを何杯あけたのか忘れてしまったが、調子に乗っていつになくチップを多めに払ってしまったことだけは覚えている。
プラハに関する情報は非常に詳細。テキストと地図だけで90ページにもわたっている。情報量が膨大すぎて短期間の滞在ではかえって使いにくいかもしれない。
Eyewitness Travel Guides: Prague, Dorling Kindersley, London.イラストと写真をふんだんに使った構成で、見ているだけでも楽しい。ランドマークなどもわかりやすく表現されていて、プラハの街歩きには是非持ち歩きたい1冊。
長距離列車の多くが着くのはHlavni Nadrazi駅(「Praha hl.n.」のように表記される)。ヨーロッパ式の行き止まりではないのがちょっと変わっている。やはりこの駅にもATMはない。ボヤボヤしていると評判の悪いタクシーの客引きが近寄ってくるので、潔くレートの悪い両替所でチェコ・コルナを入手。地下鉄の入り口にある案内所では3日間用などのチケットを入手可能。
地下鉄やトラム、市バスの乗り放題チケット。期間はいろいろあるが、ツーリストに都合のよさそうな3日間用は200KC。売り場はたくさんあるようだが、Hlavni Nadrazi駅、空港のいずれでも入手可能。
最初に使うときだけ改札機に通して日付を入れる。決して何回も改札機に通してはいけない。改札は頻繁にやっている。
詳細はPrague Public Transitで確認できる。
地下鉄A線の終点「Dejvicka」駅のすぐ近く。駅にはサインも出ている。日本から旅行代理店を通して手配したが、オフシーズンの料金で朝食付きツイン6000円。はっきり言ってこれはお買い得である。オフシーズンの場合、ホテルに直接予約した方がかえって料金が高くなるようだ。
旧市街広場に面した緑色の建物。たぶんすぐに見つかる。夏は店先にならべられた席もあり、プラハの雰囲気を味わうにはお勧め。料理もおいしく、料金も大酒飲みかつ大食いが2人で600KC強でほどほど。注文は英語で可。
しかし、店内のトイレでチップを要求するのは感心しない。
地下鉄の駅ではNarodni Toridaが近い。Lonely Planetだけでなく「地球の歩き方」にも載っていたので、細かい場所はそちらを参照。
ビールの種類はいろいろ楽しめる。ジョッキを10杯近くあけたようだ。料理も盛大に注文したが、サーモンをつまんだことと最後にダックを食べたことしか覚えていない。それでも2人分の勘定は3桁で収まっていた。
チケットの窓口は劇場の建物の左側にあり、17:00まで。訪問した日の演目は「椿姫」で開演は19:00であった。今回はチケットを当日購入したが、こちらのエージェントを通して事前に予約を入れることも可能なようだ。
チェコ人はかなり「おめかし」をしてきているが、外人ツーリストはそんなに気張った格好をしていないので、服装を気にかける必要はないと思う。